手をひいて
忍術学園は金さえ払えばどんな身分の者でも、どんな過去を抱えているものでも入学を許される。 毎年入ってくる者の中には戦で焼け出された親のない者、農民の子など、それは様々な境遇の者がいた。 伊作の家事情を聞いたとき、気の毒には思ったがさして珍しくもないと思ったものだ。 しかし・・・。 文次郎は思う。学園広しと言えど、こんな変わり者は少ないであろうと。
「まだ眠らないのか?」 「ん?ああ、ごめん。明るかった?」 文次郎が布団の中から声を掛けると、文机の前で一心に本を読んでいた伊作がこちらを振り返った。 「いや、明かりは大丈夫だけどよ・・・」 「本当?じゃあもう少しだけ・・・明るかったら言って」 そう言うと伊作は再び文次郎に背を向けた。 入学してから三年間、伊作と文次郎は同室であるが、入学2ヶ月で文次郎は気づいた。 伊作は毎晩夜遅くまで起きている。 実際のところ本人がどう考えて夜更かしをしているのかは聞いたことがないが、毎日毎日、彼は遅くまで読書にふけっている。 勉強しているのかと言えばそうでもなく、彼が選出する本のジャンルはさまざまである。もしかすると無類の本好きなのかも知れない。 「じゃあおやすみ」 言って文次郎は布団を被った。 「ああ、おやすみ」 文次郎に背を向けたまま伊作が答えた。 結局伊作が布団に入ったのは、深夜を大分過ぎた後だった。
「おうぃ、潮江!」 呼び止められて振り返ると、担任の野村雄三が手招きをしている。傍まで行くと野村は呼び止めてすまんな、と謝罪をして話し出した。 「善法寺のことなんだが。最近変わった様子はないか?」 野村に言われてああ、と頷く。 最近の伊作は全く授業に身が入っていない。授業を聞いているように見えていつもぼんやりとしている。 「別段変わりはないようですが、今夜にでも少し話をしてみます」 文次郎の言葉に、野村はこの感のいい生徒に自分の言わんとしたことが正確に伝わったことを知った。 「よろしく頼む」 文次郎は一礼をし、その場を離れた。 野村には「別段変わったことはない」と言ったが、文次郎には伊作がぼんやりしている理由が分かっている。例の夜更かしのせいだ。 最近はそれがこと酷い。明け方近くに布団に入ることもあり、すでに夜更かしの域を超えている。 忍者の世界は競争だ、と言うけれど、今は大事な学友。一緒に卒業まで漕ぎ着けたいし、それ以上に文次郎は伊作が大事だった。 度を越えた夜更かしと、普通に授業に出る生活を続けていれば伊作の体が持たないくらい容易に想像がつく。 今夜にでも伊作を問いただすつもりで、とりあえず文次郎は夕食をとるために食堂に入った。 「あ、もんじ」 入ったとたん、声を掛けられる。小平太だ。 「こへ・・・」 体をそちらに向けた瞬間、文次郎は固まった。 「・・・何だ、ソレ」 「何だって・・・・いさっくん」 「それは見りゃ分かる」 「・・・・」 入学以来つるんでいる小平太、仙蔵、長次、そして伊作が今夜も仲良く食事をとっている。 いつもと違うのは小平太の隣に座る伊作が、食事も中途半端に小平太の肩に寄りかかって眠っていることだ。 文次郎は取り合えず夕食を受け取り、小平太に寄りかかって眠る伊作の隣に腰を下ろした。 「おい、いさ・・・」 「暫くそっとしといてやれよ」 声を掛けようとしたのを制したのは伊作の前の仙蔵だった。 「俺はへーきだよ、もんじ」 小平太も笑って、伊作を寄りかからせたまま器用に食事を摂っている。 「伊作、どうしたんだ?眠れてないのか?」 仙蔵は綺麗な形の唇に食事を運びながら尋ねた。 「こいつ、最近夜更かしが酷くてな・・・毎晩毎晩。ここのところ眠るのは夜明け前だ」 「で、そんな睡眠時間で授業に出ているのか」 文次郎は溜め息をつきながら頷く。 「えええ!そんなの、いさっくん倒れちゃうよ!」 小平太が身を捩ると同じように伊作の体もずれたが、以前伊作は眠っている。 「・・・相当な寝不足だな。さっきも気がついたら寝てたし」 仙蔵の言葉に一同は頷く。確かにこれほどギャラリーが騒いでいても起きないなんて。 手早く各自の食事を平らげ、伊作の中途半端な残り分は小平太の胃に収まり、文次郎は伊作を負ぶった。 「やっぱり起きないね、いさっくん。すんごい悩み事でもあるのかなあ?で眠れないとか・・・」 「それを聞こうと思ってたんだがな・・・まあ目が覚めてからでいいさ」 伊作を負ぶって部屋に戻り、小平太が敷いた布団に寝かせても伊作は目覚めなかった。
夜中近くだろうか。 ふと、文次郎は目を覚ました。 それは微かな気配だった。文次郎の隣で眠っていた伊作が起き出し、布団をするりと抜け出した。 始めは厠にでも行くのだろうと思ったのだが、伊作は文机の明かりをつけると一向にその場を離れようとしなかった。やがてぱらり、ぱらりと紙をめくる音がする。 こいつは〜・・・! 「おい!」 眠っていると思っていた文次郎が急に起き上がり、声を掛けたことに余程驚いたのだろう。伊作は飛び上がらんばかりに肩を震わせる。 「もんじ・・・」 その瞳は文次郎を見ているようで見ていない。 「伊作、読書もいいけどな、毎晩毎晩それじゃあ体を壊すぞ」 「・・・ごめん」 伊作はしゅん、と俯いた。 叱られてうな垂れる子供のように伊作は小さくなっており、文次郎は布団を這い出して伊作の前に座るとふう、と息を吐いた。 「お前さ、最近おかしいぞ?」 「・・・ごめん」 「ごめんじゃなくてさ、俺は・・・俺だけじゃなくて皆、先生とかも、お前のことが心配なんだよ」 伊作はうな垂れたまま顔を上げない。 伊作の、正座の膝に乗せられた両手がぎゅ、と握られる。文次郎はその手に自分の手を置いた。 伊作の体が小さく揺れて、やっと伊作は顔を上げた。 「なんかある訳?・・・こへが言ってたけど、悩みとか・・・」 伊作の瞳は怯えるような、すがる様な。 「入学したときから夜遅くまで本ばっかり読んで・・・お前の自由だから何も言わなかったけどさ。最近は酷い。・・・心配だよ」 「・・・・もんじっ」 文次郎の言葉に伊作の瞳が潤んだかと思うと、伊作はそのまま文次郎の胸にすがり付いてきた。 「伊作?」 驚いたが、自分の胸の中で小さく肩を震わせる伊作の背中を優しく撫でる。 伊作は暫く文次郎の胸に顔を埋め、肩を震わせていた。 「ごめん・・・」 暫くそうした後、伊作は体を離し、謝った。 「別にいいけどよ・・・おい、あんまりこすると跡が残るぞ」 文次郎に言われて目をこするのを止めた伊作が少し笑う。 「忍術は科学だと言うけれど・・・」 伊作の唇から控えめな声が漏れ、文次郎は彼の話を聞くために姿勢を直した。 「僕の話はかなり非科学的だと思う」 伊作は一息つくと文次郎を見た。 「僕は寺の次男坊でね。自分でも仏門に入るんだと思っていたんだけど、ある時実家の寺が焼け出された」 そこで伊作は眉を顰めた。 「そのときの自分の無力さったら・・・幸い家族は無事だったんだけどね。それから力をつけたいと思うようになって」 「忍術学園に?」 そう、と伊作は頷く。 「武術を習おうかとも思ったんだけど僕にはあんまり向いてないかな、って。忍術の方が合ってる気がしてね」 少し落ち着いた顔で伊作は笑う。 「でも両親は最初反対したんだ」 そりゃそうだろう。仏門に入ろうかという優しい子供が厳しい忍びの世界に足を踏み入れようとしているだなんて、親としては心配で堪らぬだろう。 「多分、今もんじが思ってることとは違う種類の心配をしてね、反対された」 「違う?」 伊作は頷く。 「両親は僕が危険な世界に入ることが心配だったんじゃないんだ。僕の、昔からのやっかいな性質を心配してた」 伊作の言葉に文次郎は首を傾げる。 「信じないかも知れないけど・・・僕はこの世のものではないものが視える」 「ば・・・・」 馬鹿げたことを、と言おうとした文次郎の言葉は、伊作の真摯な瞳の前に遮られた。 「信じなくてもいいけど・・・」 伊作は視線を緩めてふと笑った。 文次郎は息を呑む。 伊作の瞳は嘘を言っていなかったし、なによりその眼力に得体の知れないものを感じて背中を汗が伝った。 「兄はそうでもなかったらしいんだけれど、僕は昔から感の強い子供だったらしいよ」 文次郎はごくりと固唾を飲む。 「夜泣きが酷くって。それ以上に両親が心配したのは僕がいつも何かと遊んでいたことだった。視えない何かが僕の相手をしてくれて・・・」 ぞわり、背筋が粟立った。 「父親が・・・父親は今でも住職をしているんだけれど、僕の能力を封じてくれて。それでも・・・視えるんだ」 伊作は伏せ目がちに文次郎を見た。 その伊作の瞳に恐怖を覚える。 誰だ?これは誰だ。今、自分の目の前に座っているこの少年は・・・伊作ではない別の何かのようにも思えた。 「闇の中は酷い。夜は怖い。あちら側に引き込まれそうで怖いんだ。入学してから少しマシになってた。力が弱くなったのかと思っていたんだが・・・最近は駄目だ・・・」 だから、と伊作は背後の文机の本に触れた。 「気を紛らわす。とことん眠くなるのを待つ。怖いものが遠くへ行くのを待つ・・・そしたら夜明け前になっちゃうんだけど」 本に触れたまま、伊作は文次郎に背を向けるように動かなくなった。 「伊作」 「何?」 意を決したような文次郎の呼びかけに、伊作は背を向けたまま答える。 誰だ?これは誰だ。今、自分の目の前に座っているこの少年は・・・伊作ではなく怖いものではないか?自分の目の前に座っているこの少年は・・・。 文次郎は伊作の手を握り、ぐい、と引くと伊作がこちらを向いた。 「伊作・・・」 ほっとした。 燭台の明かりに照らされた彼は、確かに伊作だったから。 よかった。そこにいた。 「今は俺がいるだろう」 心配している友達もいる。 そう言うと伊作は笑った。 「あのね、もんじにお願いがあるんだ」 小さな声がして、掴んだ手にぎゅ、と力が篭った。 「もし僕があっちに行ってしまいそうになったら・・・」 この少年は何を不安に思っているのだろう。 守りたい。傍にいてやりたい。 「今と同じように手を引いてね」
「ん・・・」 小さな声が漏れ、伊作が布団の中で体を捩った。 寒いのだろう。文次郎の方へ体を摺り寄せてくる。 文次郎はそれを拒否せず、伊作を起こさないように彼の背まで布団が掛かるように直してやると、伊作の肩を抱いた。 伊作はもそりと動いたが、目覚めることなく静かな寝息をたてている。 あの夜、初めて伊作が文次郎に自分の能力について話した夜、文次郎は彼にふたつの約束をした。 一つは、伊作の傍にいること。傍にいて、伊作が何かに惑わされそうなときは手を引いてやること。二つめは、一緒に眠ること。 いつか伊作は食堂で食事中に小平太によりかかって眠ってしまったことがあるが、あのときは人の気配に安心してしまったかららしい。 それを聞いて文次郎が出した提案だった。人の気配で安心するなら同じ布団で一緒に眠ろう、と。 最初は遠慮していた伊作も、始めてみると眠りやすかったらしい。一緒に眠るようになって彼が夜更かしすることもなくなった。 全く変わり者だよな。 伊作の肩を抱きながら文次郎は笑みを漏らした。 この世のものではないものに怯える伊作と、こうして彼に縋られる状況に不満を感じていない自分。いつまでこうして過ごせるか分からないけれど、できる限りは伊作の力になりたかった。 「ん・・・」 伊作の手がもぞりと動き、文次郎はそっとその手を取った。 きゅ、と握ると、伊作はまた安心したように寝息をたて始めた。
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