片想い ―後篇―
寒くなったな・・・。 伊作はふと、陰陽寮の廊下で立ち止まった。空を見上げると、細い雲が申し訳程度に浮いているのみ。陰陽寮の木々も、そろそろ冬姿になっている。 どうりで最近、足先が冷えるわけだ。そろそろ本格的に冬の衣を出し始めねばなるまい。 そう思い、伊作はふと、己のものではない衣の存在を思い出す。 久しぶりに袖を通してみようか・・・。 伊作はそう決め、今日の仕事を終わらせるために、師の待つ部屋へと急いだ。
仕事を終え、屋敷に戻った伊作は早速行李を開けた。奥の方にその衣は収まっていた。 「どれ・・・」 羽織ってみるとそれはぴったりで、伊作は知れず笑みを漏らす。 「ぴったりだよ、もんじ」 呟いた声に応える者など当然ながら居なかったが。 伊作が大事そうに撫でたこの衣は、伊作が六つのときに出会った優しい鬼がくれたものだった。 名を文次郎という。 初めて彼が伊作の前に現れたときはそれは驚いた。だが、会うたびに伊作は文次郎の優しさを知り、彼に惹かれていった。 冬のある夜、彼から別れを告げられたとき、その訳は未だに伊作にも分からないのだが、彼は確かにまた会えると言った。 伊作が都に名を馳せるほどの陰陽師になったとき、また会えると。 だから伊作は決心したのだ。この文次郎の衣が体にぴったり合う頃には一人前になっていてみせようと。 今まで大事に置いていたその衣は、十八になった伊作の体にぴったりの大きさになっていた。 「もんじ」 伊作にも分からない。どうしてこれほどまでに彼が心の中に棲みついているのか。これほどまでに彼に会いたいと欲するのか。 「会いたいよ、もんじ」 これは片想いに似ている。
寒さも本格的になってきたある日、伊作の師が病で他界した。 葬儀の帰り、伊作は鴨川のへりを歩きながら静かに師に思いを寄せる。 彼は伊作にとって、唯一身内のような存在だったから、今まで色んな人間の死に立ち会った伊作もこの度ばかりは目が溶けるのではないかと思うほど涙を流した。 自惚れるわけではないが、己の能力は他の陰陽師と比較しても優れていると思う。それ故に妬みも多くかい、それを庇ってくれるのが師だけだった。 優しくて大きな心の人だった。 陰陽寮はもう駄目かもしれない。 伊作は思う。 時折思うのだ。己が優れているのではなく、陰陽道自体が廃れてしまったのではないかと。それほど、陰陽寮の力は弱くなっていた。 「確かもんじも言ってたっけ」 幼い頃の記憶で、陰陽師の屋敷だから鬼も入って来れまいと言った伊作に、文次郎は苦笑いをしたことがあったが、文次郎にはあの頃から分かっていたのだろう。 確かに鬼である文次郎が侵入していたのだから。 あの頃は師も健在で、文次郎も裏口までしかやって来なかったが、今ならどうか分からない。 最近文次郎のことばかりを考える。 そう、伊作が思ったときだった。 「・・・もんじ?」 確かに彼の気配がして、辺りを見回す。 「もんじ!」 気付けば駆け出していた。 十二年間、焦がれていた姿が橋の下にあった。 伊作は足元の裾が汚れるのも気にせず、土手を降りて文次郎に駆け寄り、迷わず抱きついた。 「・・・!」 文次郎は驚いた様子だったが、すぐに伊作を抱きしめ返してきた。 「もんじ・・・もんじ、もんじ」 あの頃とは違う。あの頃は腰までしか届かなかった。でも今は、こうして首に腕を回して。 「もんじ・・・」 文次郎の首筋からは日向の匂いがした。 「伊作」 文次郎の声が、抱きついたせいで近くなった耳元で聞こえた瞬間、伊作はこの気持ちが本当の恋であったことを確信する。 「会いたかった」 「ああ」 「元気だったの?」 「ああ。・・・お前こそ、その、大丈夫なのか?」 伊作は腕を緩めて文次郎の顔を見た。文次郎の瞳は少し心配そうにこちらを見つめている。 「お師様が亡くなられたのだろう。お前は泣き虫だったから、心配になった」 「それで・・・来てくれたの?」 肩口から顔を上げて文次郎を見ると、彼は昔と同じように優しく、少し心配そうに微笑んでいて、伊作のとっくに枯れたと思った涙がぶわりと溢れた。 文次郎は何も言わずに強く抱いてくれて、伊作は久方ぶりに子どものようにわんわんと彼の胸で涙を流した。
「大きくなったな」 そう言われて、鴨川の水で顔を洗っていた伊作はふと顔を上げる。文次郎は伊作の傍に立っていて、嬉しそうに笑っていた。 「もう十八だよ」 「そうだな」 伊作は立ち上がる。ほら、少し自分が低いものの、文次郎と頭が並ぶ。 「ちゃんと見てた。お前が必死に勉強したり、陰陽師として活躍しているところだって」 「私は合格?」 伊作が首を傾げてくる。その姿が十八の青年にしては可愛らしく、昔のように自分に甘えてくれていると感じ、文次郎は喜びを隠せない。 「ああ、だからこうして会いにきた。・・・頑張ったな」 文次郎が頭を撫でてやると、伊作はそれを嫌がらず昔のように嬉しそうに目を細めた。 それから二人で十二年間を埋めるみたいに色んな話をした。夢中になって夕日が大分沈んでしまったのも気付かないほどだった。
「伊作」 呼ばれて振り返ると、兄弟子が立っていた。 「はい」 兄弟子の部屋に招き入れられた伊作は、文机の傍の円座に座るように促される。兄弟子は文机の前に座った。 「どうされました?」 伊作が大きくなってからというもの、こうして兄弟子と向かい合うことなど少なかった。 「お前に限って間違いなど起こさぬと思うのだが・・・」 兄弟子は言いにくそうに口を開く。 「お前が最近、善からぬものと付き合っておるという話を耳にした」 「善からぬもの?」 伊作は眉を顰める。 全く思い当たらない、といった風の伊作に兄弟子は焦れたように言った。 「人の形をした鬼だ」 伊作は何も言わなかった。伊作は都でも名を馳せる陰陽師。兄弟子からも優秀な彼の真意は伺い知れなかった。 「陰陽寮の者がお前と、親しそうにしている鬼を見たと。一度や二度ではないと。伊作、お師さまが亡くなられた今、よからぬ噂を陰陽寮に持ち込むことはよくない。手を切れ、伊作」 ああ、この人たちは体裁ばかりを気にしている。 「お師さまの名を汚すようなことはするな」 師ならば言っただろうに。鬼もまた様々、善し悪しを見極められないでどうする、と。 「鬼がみな、悪しきものだとお思いですか」 伊作は兄弟子を睨んだ。 「さあな。しかし、今の陰陽寮ではお前と鬼の関係を悪と思っておる者ばかりだろうな」 伊作は立ち上がった。いつまでも分からずやと話をしているつもりはない。 「伊作」 部屋を出て行こうとした伊作を兄弟子は呼びとめ、一言こう言った。 「お前が手を切らずとも、陰陽寮が皆でかかれば調伏もできよう」 伊作は屋敷を飛び出した。
羅城門に向かって走る。これほど遠いと思ったことはない。もどかしい。 やがて、暗闇の中に浮かぶ緋色の門が見えた。そして門の下に人影。文次郎だ。 「どうした、慌てて」 文次郎の傍に駆け寄り、走ってきたせいで切れてしまった息を整える伊作に、文次郎は優しく声を掛ける。 「もんじ・・・っ」 「無能な陰陽師に、俺を調伏せよと命じられてきたか?」 伊作が驚いて顔を上げると文次郎はいつもと変わらず優しくこちらを見ていた。 「聞こえたの?」 伊作の瞳が寂しそうに開かれる。 「珍しくお前が怒っていたから、少し耳を澄ましてみた」 文次郎は吹き込んできた風の先をたどるように顔を向けた。 「私は、絶対そんなことは・・・っ」 「伊作」 伊作の言葉を遮る。文次郎は顔を戻して伊作を見つめた。 「俺を調伏したらいい」 「・・・もん・・・」 「棲みにくくなった。お前のような優秀な陰陽師や坊主がいなくなり、阿呆な連中ばかりだ。伊作、時代は変わりつつある。呪力の力も廃れてきている。お前も感じているのだろう?」 伊作は俯いた。 「実際、この平安の都からも鬼は少なくなった。みな、住処を変えている」 それでも文次郎が平安京に拘った理由。伊作がいるからだった。 「伊作」 文次郎に腕を引かれた。あっという間に伊作は彼の胸の中に引き込まれた、と思うと文次郎は宙を舞った。 「つかまっていろ」 文次郎の足は速い。伊作を抱えたまま、闇の中を駆ける。あっという間に羅城門は見えなくなった。 頬で感じる冬の冷たい空気も、文次郎に抱えられている今は厳しさを感じない。 耳元で風が止んだと感じたときには、文次郎は目的の場所に到着したらしかった。 「ここは・・・」 文次郎の胸から顔を上げ、ゆっくり体を離した伊作は辺りを見回した。 「戻り橋」 伊作は呟いた。 「その昔、彼がいた頃はまだ居心地がよかった。彼は、俺たちの善し悪しを見極め、俺たちを眷属としても使った。その頃の俺たちは、人と共存する生き方もあるのだと信じていた」 文次郎は小さな橋の欄干に、背を預けて伊作を見ている。 「安倍晴明」 「そうだ、お前のように才のある男だった。今はただ、目の前の祝詞を読み上げるだけの形を整えた陰陽師ばかりだ」 ここ、一条戻り橋は、その昔、都で一際その才能を知らしめた陰陽師安倍晴明の眷属である式神や鬼を住まわせた場所である。 「今の陰陽寮の連中に、俺を調伏するだけの能力はない」 「だったら、もんじも都を出て・・・」 「お前の居ない場所に何の意味があるんだ」 文次郎のしっかりした言葉に、伊作は彼を見つめる。 「私も一緒に都を出る」 伊作は文次郎を見つめたまま、はっきりとそう告げた。文次郎は少し驚いたように目を開いて、笑った。 「いい機会だと思ったんだ」 文次郎は呟いた。 「俺とお前に流れる時間は違う。お前が老いたり、病に侵されて俺を置いてこの世を去るのは分かっている。俺はお前のいる時間を知ってしまった。だから、お前のいない時間を過ごすことを考えるとこれ以上の恐怖はない」 だから、文次郎は伊作に近づいて手を取った。 「お前のこの手で、終わらせてほしい」 伊作の手を口元へ近づけ、唇を当てる。 伊作はばっ、とそれを振り払った。 「で、出来るわけないじゃないか・・・私が・・・私がこの世で一番大好きなあなたを、自分の手で消す・・・」 伊作は文次郎を睨む。 「私がいない世界に恐怖を感じてくれるのなら、私があなたのいない世界で過ごす恐怖も分かっているの?」 伊作は涙を流していた。 「酷い勝手だとは分かっている。でも、お前はまだまだ都に必要だ」 伊作の能力に怯え、その闇の力を出せない鬼たちがいるのも知っている。 「お前だって分かっているだろう。このままじゃ、どうしようもない。俺だって、お前の傍にいたいが・・・」 文次郎はそっと伊作に近づくとゆっくり彼を抱き寄せた。伊作の手が文次郎の背に回って肩が震えている。泣いているらしい。 「私は・・・もんじが何であれもんじが好きだよ」 「ああ。俺だって伊作が好きだ」 伊作は顔を上げた。 「初めて、もんじの口から好きだって聞いた・・・」 「そうか?」 文次郎は笑っていた。伊作の頬にゆっくり手を添え、顔を近づけるとゆっくり唇を重ねた。 唇を離すと、伊作をぎゅっと抱き寄せ、その髪に顔を寄せた。 「伊作、この橋はその名の通り、また『戻ってくる』橋なんだ」 伊作の髪を撫でながら、文次郎は言う。 「俺は何度でも、次の生でもきっとここへ戻ってくるから」 「・・・だったら、また会える?」 「何度でもお前を探す。だから、きっとまた会える」 昔から伊作は賢い人間だったから、きっと文次郎の気持ちも分かってくれたはずだ。文次郎は伊作を抱く腕に力を込めた。 「ねえ、もんじ」 腕の中で伊作が小さく呼びかけた。伊作は腕の中からこちらをじっと見ていた。 「だったら・・・あなたが私を忘れないように、私があなたを忘れないように、あなたの肌に触れさせて」
羅城門の下で、伊作はふと立ち止まった。 風が門を抜け、伊作の傍を駆け抜ける。 もう随分と春めいた風になった。優しい鬼が伊作の前から姿を消してから幾年の月日が流れたが、この優しい風だけは変わらない。 ふと、羅城門を見上げる。 「もんじ?」 伊作の声に応えるものはなかった。 この片想いは性質が悪い。伊作は笑う。 きっと次の生まで、自分はこの片想いを引き摺るのだろうと。
きっとまた逢える。 何度生まれ変わっても、また逢える。
「いさっくん?何やってんの?」 「え、ああ、こへか。いや、何だか懐かしい気がしてさ」 「懐かしいって、いさっくん、この辺来たことないって言ってなかったっけ」 「ああ、そうなんだけど、なんだか・・・」 「おーい、伊作、小平太!置いてくぞ!」 何やら橋の上で動かなくなってしまった伊作と小平太に、仙蔵が声を掛けた。 「今行くー!」 小平太がこちらに手振って駆けてくる。伊作はまだ動かない。ぼんやりしている。 「あ?何やってんだ、伊作は」 折角の5人での京都旅行だというのに。早く行かねば美味いと評判のそばがなくなってしまうではないか。 「仕方ねえ、俺呼んでくるから、お前ら先に行って順番取ってろ」 文次郎は言うが早いか伊作の方へ駆け寄った。 「すぐに来いよ」 仙蔵がそう言った。 「おい、伊作」 「もんじ・・・」 「早く行こうぜ」 どうしたんだ、と言う文次郎に伊作は笑った。 「何だか、懐かしい気がしない?この場所も、この橋も」 「?またおかしなこと言って」 文次郎はそこにあった文字に目をやった。 「『一条戻り橋』・・・生憎来たこともねえな。ほら、行くぞ」 伊作の手を引いてずんずん歩き出す。 「もー、もんじは情緒がないなあ!」 「うるさい、情緒で腹がふくれるか。そんなもんよりそばだ、そば」 手を引かれながら伊作は笑った。伊作の声に文次郎も声を出して笑った。
了
−−−−−−−−−−−−−−−−−−− なんて強引な話の流れなんだ・・・。 もっと書きたいこといっぱいあったんですがあまり長くなるのもな、と思い、この辺で打ち切り。纏める能力もなくてすみません・・・。 妄想は勝手に暴走し、本当に考えてるときは楽しかったです。 「一条戻り橋」のエピソードは他でも使うかもしれません。大好きなんです。 戻り橋にはいくつもの伝説があります。調べてみると面白いですよ。名前の通り、この橋を通るとまた戻ってくるというジンクスは実際にあり、戦争中はこの橋を通って(また戻ってこれるように)出征して行ったとか。花嫁さんとか婚約中の方は出戻らないように通らないそうです。おもしろいですよね。そういうの、大好き。
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