匂い
へ〜くいしゅい! 人生初ではないだろうか。自分の、しかもおかしなくしゃみで目を覚ますなんて。 目を開いて見るとまだ辺りは闇の中だ。時刻は分からないがまだまだ夜明けが遠いことは充分知れた。 どうりで寒いと思ったら布団を着ていない。 梅雨時はたまに冷えることがある。 この時期はじめじめして蒸していることもあるが、それに反して夜半などは夏の入り口にしては信じられないくらい寒くなったりするのだ。食べ物が腐りやすく腹を壊す病人も大勢出るが、同じくらい気温の差のせいで風邪をひく人間も多い。 こいつ・・・。 文次郎は暗闇の中で、掛け布団を独り占めしてくうくう穏やかな寝息をたてている姿をじろりと睨んだ。 伊作は寝相が悪い。 忍者としてどうなのかと思うが、同衾しているとたまに足や手が出る。ごくたまにだが、布団の外へ移動していることもある。 「これでもマシになったんだよ?子どもの頃はさ、朝起きたら足を向けていた方に頭があったりしてた」 あはは、と気楽に伊作は笑った。 そりゃお前は寝てるから分からないだろうが、蹴られる者の身にもなれ、と思う。 「じゃあ一緒に寝なきゃいいじゃない」 けろりと言われた言葉にぐうの音も出なかった。 所詮は惚れた弱み。蹴られようが叩かれようが、好いた相手と床を共にしたいと思うのは人情。 ぶる、と夜気に震えて文次郎は辺りを見回した。 伊作の寝相の悪さを見越して冬や夜が冷えそうな季節などはもう一枚掛け布団を持ち込む。連日寒い夜が続いていたので、今夜も自分の布団を持ち込んだのだが。 伊作の向こう側にくしゃくしゃに蹴られた布団を見つけ、伊作越しに手を伸ばして布団を取り深く被った。 とたんに鼻をくすぐった香りは自分のものではなく、伊作の体臭。 文次郎はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。伊作を抱き締めているような錯覚に陥り、嫌いではないのだが。ふう、と大きく溜め息をついた。 最近気がついたのだが、伊作にはおかしなくせがある。 文次郎が自分の掛け布団を持ち込むと、必ずといっていいほどの確率で文次郎の布団を奪う。朝まで大人しく己の布団を被って寝ていることがあまりない。 「お前は、どうして俺の布団を取るんだろうなあ」 朝、少し嫌味交じりに伊作に言ってやった。 伊作はきょとんとしてから笑い出した。 「あっは。そりゃ、君、寝てる間のことを僕に言ったってしょうがないよ」 それもそうなのだが。 「いつか俺が風邪をひいても馬鹿にすんなよ。お前に布団を取られたせいかもしれないからな」 伊作はまだ笑っている。 「心得とく」 朝ごはんはなんだろうねえ、伊作は呑気に言いながらのそのそ着替える。今日は休みなので私服だ。 「僕、君の匂いが好きなんだよね」 飯の話の続きにふと言われて文次郎は言葉に詰まる。 「は?」 「君の体臭」 伊作はにやりと笑っている。 「だからかも知れないよ?」 「何が」 「君の布団を取っちゃうの」 ああ、成る程。 「自然と体が動いちゃうのかもね」 伊作はすっかり着替え終えて文次郎を見た。 「早くしなよ」 「え?ああ」 促されて文次郎も急いで袴を履く。今日は前々から伊作の薬草の買い付けに付き合わされる予定なので、いつになく飯を急かされている。 「お前って、俺のこと大好きだよな」 きゅ、と帯を締めながら言った。驚くかと思った伊作はまたにやりと笑った。 「おや、知らなかったのかい」 「はっきり認めんなよ・・・」 「否定して欲しかったの?」 そういう訳じゃねえが・・・。言いよどむと伊作に手を引かれた。 「早くご飯に行こうよ」 「・・・そうだな」 歩き出したそのとき。 「匂いって、相手を惹きつけたり興奮させたりするもんだって言うよ。僕ね、君の体臭も好きなんだけど」 ああ、きっと他の連中は伊作がこんな表情をするなんて知りもしないのだろう。 「一番好きなのは、僕を抱いてるときの君の汗の臭いだったりするんだよね」 ぐっと言葉に詰まる文次郎を流し目で一瞥した伊作はぐい、と手を引いて歩き出した。 こいつの方が一枚上手だ。 文次郎は赤くなる顔を自覚しながら伊作の後に続くのだった。
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