紫陽花

 目の前の欲望を手軽に満たすには丁度いい相手だったというところだ。

 ぼんやりしていると全く隙のない隠し玉が飛んできて、額に当たって帳簿の上に落ちたそれをまじまじと見てみれば、なんのことはない、ただの紙切れを丸めただけのものだった。
「コラ、集中しろ」
 顔を上げれば『戦う会計委員長』と謳われている潮江文次郎が、目立った隈で凄みを利かせるようにこちらを睨んでいた。
「すみません」
「田村、あとはお前のクラスだけなんだぞ」
 少々呆れた声でそう言うと、三木ヱ門の仕事の半分に文次郎は取り掛かった。
 この会計委員の委員会室には二人が弾くソロバンの音だけが響いている。
 三木ヱ門が思うに、潮江文次郎という男は何に対しても熱心なだけである。
 忍術の勉強にしても、委員会の仕事にしても然り。熱心さ故に周りからは「度が過ぎている潮江先輩」と評されてはいるが、三木ヱ門自身はそんな文次郎が嫌いではなかった。
 いや、むしろ忍者として尊敬していると言った方が正しい。
「コラ、また」
 いつの間にかまた止まっていた三木ヱ門の手に文次郎の隠し玉が当たる。
 痛すぎず、それでいてただの紙くずにしては威力のあるその投げ方は、文次郎の忍びとしての技術をそのまま現していた。
「すみません」
 結局憧れてるんだよなあ・・・。
 学年一の自惚れ屋と言っても過言はないと自負している三木ヱ門が、素直に憧れという言葉を出せる相手。
 それが目の前の男だった。
 パチ、パチ・・・はた、はた・・・パチ、パチ・・・
 いつの間にやらソロバンの音に混じって雨音が聞こえるようになった頃、文次郎が手伝ってくれたお陰もあってか三木ヱ門の仕事はすっかり終わった。
 はた、はた、はた・・・
「雨、ですね」
「・・・そうだな」
 目の前の、文机二つを隔てたところに座っている文次郎がさして興味もなさそうに相槌を打った。
「・・・こんな雨じゃ、善法寺先輩、大変ですよね」
 ふと、その名を口にすれば文次郎の纏っていた空気が少し淀んだ。
「不運委員長は天候にも見放されたとみえる・・・。忍者には運も必要だ」
 とんとん、と帳簿を調える文次郎は目を伏せた。
 水無月に入ってから六年生は交替で実習に出かけていた。今週は最後のは組の実習である。
 そしてそのは組には目の前の男と一番近しい関係にあるであろう、保健委員長が在籍している。
「心配ですか?」
「何がだ・・・」
「善法寺先輩のことです」
「あいつも忍者だ。それに俺も忍者だ。他人の心配なぞしておらん」
 いかにも文次郎らしい言い草に、三木ヱ門は目を伏せた。
 暫くの沈黙。雨の音だけが静かに室内に満ちている。
「おい」
 突然、目の前に気配。
 顔を上げた瞬間、髪をひとすくい掬われた。
「こんなに長けりゃ邪魔だろう」
 三木ヱ門の長い髪を文次郎がゆっくりと撫でる。
「善法寺先輩の髪も長いでしょう」
「また伊作か・・・」
「知ってますか、潮江先輩」
 文次郎が首を傾げた。
「髪を触るという行為は、閨事よりも後のことだそうですよ」
 文次郎の手が一瞬ぴくりと動いたが、すぐに何事もなかったかのような動作に戻る。
「ふうん」
 ぱしり、と三木ヱ門がその手をとった。
 目の前の欲望を手軽に満たすには丁度いい相手。興味はあった。自分よりも技術も力もある上級生。憧れと感じられる存在。
 ゆっくりと文次郎が身を屈め、三木ヱ門も目を閉じた。
「ん・・・」
 文次郎の唇は乾いているが、思ったよりも柔らかかった。
 始めは触れるだけ、そのうちぺろりと舌で唇を舐められて促されるままに口を開くと文次郎の舌が入り込んできた。
「・・・う・・・」
「ふ・・・」
 巧みな口付けに翻弄され、三木ヱ門は文次郎の袖口をぎゅっと握った。
 ぴちゃりと水音をたて、たっぷり時間をかけて合わされた唇が離れた。
 三木ヱ門は文次郎の袖口を握ったまま俯き、何となく顔が上げられない。
「付き合ってる奴がいるんじゃないのか」
「先輩だって」
 ほとほと、ほとほと、雨の音がする。
「・・・興味があるだけです」
「ほう」
「いつもは鬼の会計委員長が、善法寺先輩の前ではどんな顔を見せるんですか?」
 袖口を握った手を剥がされてやや乱暴に後ろに倒された。
 天井が目の前にあって、その天井よりも前に文次郎の顔。
「後悔すんなよ、誘ったのはそっちだぞ」
「お互いさまじゃないんですか」
 近づいてきた文次郎に、三木ヱ門はゆっくりと目を閉じた。

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某さんに捧ぐ、文三木。
紫陽花の花言葉は「うつろい」相手がいるのに違う相手に移ろう二人です。続きは裏で。












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